原発事故を境にこの日本には野放しの放射線管理区域が出来てしまった。何度も話題にしているが原発事故以前、0.6μシーベルト/h以上の放射線量がある場所は放射線管理区域に指定され、専門家だけが防護を整えた上で入ることを許された。そして放射線管理区域から自由に物を持ち出すことは出来なかった。
それほどデリケートな扱いだったのが、原発事故を境に放射線管理放棄と相成った。
多くの岩場で放射線管理区域相当でありながら放射線不管理区と化し、誰でも無防備に除染の義務もなく自由に出入りが出来るようになった。
多くのクライマーはそれを自己責任と呼んだ。
何故、放射線管理区域というものがあったのだろうか?それはひとえに放射性物質を拡散させない為であると思われる。
これだけ多くの放射性物質が拡散してしまった今さら放射性物質拡散防止の努力など焼け石に水なのだろうか・・・。
あるクライミングジムのオーナーが多くのクライマーが放射線管理区域相当である岩場に足繁く通うのでジムの方針として汚染された岩場に行かれる人へ向け、岩場で使うギアとジムで使うギアを分けるか洗ってからの使用にして欲しいと頼んだ。
女性や子供も遊びに来る場所として想定される不要な被曝からお客さんを守るのが目的だ。
自己責任で放射性管理区相当に遊びに行くのは止めないが、自己責任の範疇からはみ出す分に関しては客商売として目を瞑らない。このご時世にこれが言えたのはとても立派だと思う。
しかし思惑とは裏腹な感情論を主体とした非難が集まったという。
原発事故前であれば、放射線管理区域にクライミングに行って除染もせずに帰って来ればクライマー当人が糾弾されただろう。
しかし原発事故後では放射線管理区域相当の場所にクライミングに行って除染もせずに帰って来るクライマーを注意すると注意した人が糾弾されるようになったようである。
僕の友人はこう言っていたよ。
「放射線量が高い場所でボルダリングマットをほろっても意味ないから放射線量が低い場所まで行ってからほろうようにしている」
考え方の基本が倒錯してしまったようである。
想像力を巡らせてみよ。
一年ちょっと前に原発事故が起こりました。
大量の放射性物質が放出され、今もなお続いている。しかしここのところ空間線量は下がりつつあるようだ。
なぜか?
おそらく空間に漂う放射し物質が減ったからだろう。
では、その放射性物質はどこへ?
地面だろう。
では地面の放射性物質はどうなっているか?。
地面では土に染み込んだり。降った雨や流れる水の作用によって凹凸の凹部へと放射性物質が集まっているだろう。地面では局所な濃縮が続いていると思われる。
踏まえて岩にも付着してただろう放射性物質はどこへ集まったのだろうか?
雨に流された場合、岩の取り付き付近に集約されてはいないだろうか?それはボルダリングマットを引く場所では?
そうであったとしてその地面にマットをひいたらどうなるだろう?
マットに放射性物質が付着するだろう。
飛び降りを繰り返す度にそれはマットの奥深へと浸透するかもしれない。
そして飛び降りを繰り返す度に衝撃で放射性物質が舞い上がり吸い込んではいないだろうか?
帰宅、車にマットを積み込めば車の中に放射性物質が付着しないだろうか?車内の汚染は大丈夫だろうか?
汚染マットになってしまったとして、それを別の機会に知らぬ人が使ったとしても自己責任なのだろうか?
何人の人が汚染マットを通じて岩場に留められていた放射性物質と関わるのだろうか?
こうやって想像を巡らせる事を想定といっていいかな。
非情に響くかもしれないけれどそれほどシビアな問題なのではないかと考えている。
「不安を煽るな」と無知でいるより、不安になってでも想定材料を集め無くてはならないと考えている。
短い時間に強い放射線浴びるのと慢性的に弱い放射線を浴び続けるのとどっちが細胞に影響を与えるか?
後者との説あり。(参考:内部被曝−ペトカウ効果と遺伝疾患)内部被曝なら慢性的な被曝だね。
プルトニウムなど不溶性放射性物質をを経口で内蔵に取り込むのと呼気として肺に吸い込むのでは排出されにくいのは・・・呼気として吸い込む場合だそうだ。肺は新陳代謝による体外への排出が殆どないとのこと。
辿りつけない絶対的事実より想定材料を集めなければならないのではないか。
そしてなにより内部被曝と外部被曝を分けないと始まらない。外部線量だけで語られる事が多いけれど、外部線量だけ注意すればいいのであれば極端に言えば原発作業員はマスクする必要ないでしょ。岩場に行って外部線量だけ測って安全か危険かを判断するのは早合点で、そこに物質として放射線が存在し、吸い込んでしまう点、運んでしまう点も考慮する必要があるのではないだろうか?そこまで考えての責任ではないだろうか?
クライミングは危険なスポーツだ。だから危機管理をする。それは自己を守るためであり、人に迷惑をかけないためでもある。その為の技術体系がある。
放射性物質も危険だ。だから危機管理をする。それは自己を守るためであり、人に迷惑をかけないためでもある。・・・それが現在たいへん曖昧な状態にある。管理体系がめちゃくちゃになってしまったわけだ。
なんでこんなんなってしまったのか・・・日本は資本主義で民主主義である事を踏まえ世の中を見渡してみよ。
資本主義。これは儲かりゃいい主義だ。儲かったものが力を得る。そして儲からないことはやらない。損する事はもっとやらない。だから放射能が害であっちゃ困るんだよ。矛盾だって資本主義にかかりゃ正義だよ。だって儲かりゃいいんだから。原発早く再起動してー。
民主主義。民が主である。僕らが考え行動すれば僕らが生活を変えられるんだ。
しかーし、そんなことになっちゃ困る資本主義で力を得た権力者。民が主権を主張しないよう考えを巡らせないようあの手この手である特定の情報漬けにする。そして無批判な民を擁護する。それを愛国心であると賛美するだろう。だけどそりゃ愛国心じゃなくて信仰に近い。思考というフィルターを介させずに意思を届けることを洗脳というのですよ。
原発事故は現在のような変遷を経ているのはざっくりこの様な構造によるものではないかと思うんだ。
まやかしの主である民は被曝して、声を上げても同じ民に糾弾、もしくは無視されるよ。理屈を感情論が覆い尽くし、人々は美談を求め悲劇を忌避する。美談は悲劇のヒーロー、ヒロインを生んでヒーロー、ヒロインは大変攻撃的である。そしてついには痛みを分かち合う被曝という正義までが生まれてしまう。
しかしね、生命として原発事故由来の放射性物質による内部被曝は出来るだけしない方がいいと思うよ。
生命を尊重するならば原発事故由来の放射性物質による内部被曝は出来るだけさせない方がいいと思うよ。
生命に立ち返って考えて下さいませ。人間として考えると正解無しよ。
どうか皆様の健康がこの原発事故によって不要に害されませんようにと願います。
今現在でも放射線管理区域相当の場所に多くの人が居を構え、不本意な被曝にさらされながら生活をしている。世の中の感心は薄れる一方で時間ばかり経過してしまった。
勇気ある発言を潰させてはならんよ。また時間だけが経過してしまうよ。そしてそれが被曝者にとってはとても残酷なことなんだよ。
〈関連〉
福島原発事故について
愛のない世界からの脱却へ
※感情論主体の抽象的誹謗は御遠慮くださいませ。その類はご自分のブログでどうぞ。
Leave comments